日本の受験は我慢しがち
(海外の大学を受験するつもりはありませんが海外の大学が気になって調べた感想)
日本の大学入試はよく欧米のそれ(主にアメリカ)と比較されますが、
なんといっても日本の受験の特徴を一つあげるとしたら「我慢」だと思います。
海外の大学の入学はどちらかというと、特技だったり、ボランティアといった活動、など個性を出すために内からの欲求を重んじる事によって評価されがちだというイメージがあります。
それに対し、日本では、同じ大学の学部を受けるなら、基本的に同じ科目、問題を解いていきます。
そのためにクラム(詰め込み)スクールに通って勉強したり、(海外なら自己PRとして使うであろうことでも、)好きなことを我慢して、(殊に、日本の大学生は勉強しないと言われてますので、その後ほとんど使わない)「勉強」をします。
これが基本スタイルで、好きな事の出番といったら、優秀な受験生であればあるほど「息抜き」になり、いかに上手に我慢するかが合否を分ける大きなポイントになってくるのだと思います。
(当然、大学に入っても勉強する人は沢山いるので、使わないかどうかは人それぞれです)
だから最近は大学も入試方式を変えてますが、根底にある我慢の精神によって、「いかに我慢して」入試の対策をするかを考えているので、なかなかマネは出来ないんじゃないでしょうか。
どちらにも良さ悪さ、多々ありますが、これを意識しているのとそうでないのでは、見方も違ってくると思ったので、調べてみた甲斐がありました。
苦しいこともあるだろう
言い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
まーた決めつけてるよ
また気づかぬうちに決めつけてた。
「気づかない」と「決めつける」。ほぼ同等に嫌いです。
これには普段から気をつけてはいるが、自分も気づかぬうちにしている。はず。
なにせ、気づかないのですから。でも、それにすら気づかないのでしてるかどうか分かりませんが。
だから困ったもんです。
優しくしているつもりでも傷つけている。それに気づかない。
もしそれに気付いても、今までの常識がひっくり返されたような顔してどうも出来ない。
それより、とたんに被害者面し始める事だってある。
誰にだって気づかない事はある、でも、決めつけ続けてきた人々にとっては今さら受け入れ難く、それが「正しい」とされて生きてきたのだから、自然と反発したくなる事ばかり。
どんどんと他の考えと対立していき、争い始めたりする。
こんな事を考えていると、「人は愚かだ」だとか思いたくなってくる。
でも、それだって決めつけた態度にしか思えない。
少なくともみんなそういう一面を持っているから。
誰かがしていて、自分は違うというのは勝手な思い込みで、思い上がりで、それまた決めつけた態度ですしね。
よくある疑問「どうして生きるのか」にだって答えがあると思って考えるのも決めつけている。
こうした決めつけた態度は「うまく」生きていこうと思うほど便利になってくる。
だからどうしても止められない。
でも、こうして考えても、もっと浅くor深く考えても同じ結論に行き着く事ばかりだから、今はそれで成り立ってるのかもしれません。
最後に
人間性について絶望してはならない。
なぜなら我々は人間なのだから。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
自分のせいにはしない
人のせいにするな!とよく聞く言葉ですが、人のせいにしようがしまいが、変わらない事実。
「人のせいにしても他人は変わらないから自分を変えろよ!」という意味だと受け取っております。
だからこそ、「自分のせいだ!」というのは少し違う気がします。
多くが他人のせいで起きているということには間違いがないからです。
自分のせいにしているといっても、その作り上げた「自分」という「他人」のせいにしているということ。
ホントは「自分」のせいなのに、ここで責めてる相手は違う「自分」という他人であるということ。
自分のせいにすりゃそれで変わると思ってしまっている。
実は、またそこで自分を変える機会から逃げているのではないか?
責めている相手が自分だと安心して言いたい放題出来るからじゃないか?
勝手に自分に原因を作り出して、本当には解決できない事実に向かうのは、現実を見ようとしている人の態度とは思えません。(全ては「自分」に言っているだけでありますので悪しからず)
最近困った内容のブログが多いですね。すみません。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
自分のこの感情は嘘だとかゆうて
受験に落ちて辛いのか、
辛く泣いていてもその気持ちは本当か、
テストで負けて悔しいのか、
試合で負けてくやしいのか、
アイツを羨ましがってるのか、
出来ない自分に腹が立つのか、
「やれば出来る」というのが嘘だとバレるのを恐れているのか。
本当は違うんじゃないか。いままで生きてきて、そうするのが当たり前だとか、そうするのが人間らしいとか、それがかっこいいとか、そっちのほうが上手くやっていけるとか。
いままでのそういった経験を踏まえて「自分」だと言い切れるならいいけど、それじゃどうもスッキリしない。
それは、「誰かにとっての自分」でしかない気がする。
「誰かにとっての自分じゃない自分」はどうなのか。自分にもわからない部分を探ってみたい。
でも、どこまでいけば本当かは分からないから、「誰かにとっての自分」が自分になる。というか、そうしとくことになる。
結局そのまま終わるから、本心などはどうでも良いことだったりして。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
必要なものは全てここにあったみたいかも。です。
『「勉強をやらない自信がある!」と自信満々に語る自分を、合格させるだけのやり方を見つけて合格してやる!』とあの時は目標がはっきりしてた事を、思い返しております。
受験で合否を分ける「本当の」ポイントは何なのか。
まだまだ受験にもぺーぺーで、分かったことなんてほんの一部だけど、受験生なら誰しも気になる事。
それがひとつで無いことは分かりますが、ひとつひとつの重要性は気になるところです。
例えば
使っている参考書は何なのか。
科目毎の勉強時間とバランスはどうか。
勉強場所はどこか。
使っているシャーペンは何か。
いきたい大学はどこか。(目標は何か)
考えてみれば分かりますが、これは足し算ではなくて、掛け算です。それも、それぞれが独立な変数ではない。
だからこそ合否の予測は難しくなってて、
例えば、「受験本番のコンディション(発揮できる力)」と「勉強場所」には相関があるはずです。
普段の勉強場所がカフェやリビングなど、物音があるところなら本番も周りの物音が多少は気になりづらくなるでしょう。
しかし、普段の勉強場所が静かなところでも集中力が高い人もいますし、カフェでは全く勉強できないけど、本番は強い人もいるでしょう。それは、生まれもっての脳の作りや目標意識、もっと複雑な成長過程にあったりしてなんともいえません...
つまり、これをしたら受かる!とかいったこと(ましてや本で得ただけの知識)では確率でしか合格はできないわけです。
でも、勉強していってそのやり方の間違いを見つければ、少しは確率が上がる訳です。
「合否を分ける要因が複雑に絡み合ってて、一見するとカオス的なことですが、どんどんと間違った選択肢を減らして、自分に合ったやり方(自分でも勉強出来るようになるやり方)に出会う確率を上げていく。」これが全体を包み込む一つのかなり重要なポイントかと思います。
これが出来れば、遥かに合格率は上がるはずです。
つまり、とにかく一つずつでも、「やること」。でも、それをどうしたら出来るか、わからないから受からないんですよね。
だから、自分だったら、一つでも自分が自信のある能力があったらそこから応用して、試行錯誤のサイクルに自分を入れます。でも、試行錯誤を続けても見つからないときの辛さはなんとも言えないですよ。
結局続けること、それは今の自分を変えてくれて、それを時間がかかってもわからせてくれる、唯一の方法かもしれません。
目標が出来ることも、大切な一冊に出会うことも、素晴らしい問題に出会うこと、いいアイデアがでること、全部続けることでしか起こらないことなのかもしれません。
自分は、もう一度始めるとこからですが。
今日はこの辺で。ばいちゃ。