浪人して京大落ちた人の箸休め~'18

昔浪人して京都目指してました。

電車に揺られて考えた事

とりあえず何かしら書こうとしたら、「暑い」とつい打ってしまうほど、最近は書くことが思い付きません。

そうですね、最近は勉強する意味を掘り下げてたらやる気がな無くなってきて、悩んでおります。

でも、「悩む」って楽ですよね。
悩むだけなら行動しなくて良いというか、逆に、特に悩まずに行動することはこの上なくしんどいと思いますし。

たぶん悩んでる事に満足するんでしょうね。普段ロクに物事を考えてないから。
そんな人ばっかですよね。「悩んでます~」って辛いアピールして、心配されたいんでしょう。
ほんとに悩むってのは、そんなに簡単に誰にでも相談できたり晒したり出来るようなことじゃないと思います。
(よっぽど信頼できる親友や身内などがいるならそこにだけ相談したりする。)

殊に自分はそこまでの事では悩んでないし、今は自分で困らせて自分で解決する様子を客観視する余裕もあるくらいなので、「楽に」悩んでます。

こうして自虐するってのもまた楽です。
周りからの期待や自分からの期待のハードルを下げてるんですよね。
その思いの裏には「周りの期待を裏切りたくない」「失敗したくない」という気持ちがあります。
外からは見えないけど自分からの失望というのが、俗にいう「ぼっち」には最も辛いもので、自分を肯定してくれる味方が居なくなるんですよね。
いくらポジティブに言葉や思考法で繕っても、根では自信がないから、簡単にその塗装は剥がれ落ちてしまう。
「(自らが)自らを信じる」と書いて「自信」です、だから、自虐するというのは自信(自分を信じる自分)を失うのはもう嫌だ、と心が逃げているんです。

それで、鈍感を羨ましく思う事もしばしば。きっとその人の生きてる世界と自分の生きてる世界は隣りに座っててもまるで違うのかもしれないですね

ここからの一段落(1かたまり)は超メンドクサイ話なので、飛ばしてください

鈍感な人は自分が鈍感なのに気づかなくて、敏感な人はよりいっそう自分を敏感だととらえる。
でも、「真に」鈍感な人は自分の事を敏感だと思って、「真に」敏感な人も自分を敏感だと思う。
つまり、自分を鈍感なんて思う人はいなくて、「自分を鈍感だ」といってる人は「真に」敏感なのですが、それだと自分が敏感だと気づいてなくて「真に」敏感とは言えません。よって自分を正しく鈍感だと認識してる人はいないということになります。もし、自分を鈍感だと思っている人がいるのなら、それは他人の意見によるのもでしかなく、客観視はできてないので、確かに鈍感かもしれませんし敏感かもしれませんし。

結局、鈍感と敏感は主観では区別がつかず、他人は違う景色を見てるかもしれませんが鈍感か敏感かは自分で気づくことがないので同じ景色を見てるとも言えます。
そうなのかなあ、、、、、

なーんて、ちっぽけな悩みが浮かんでは沈み、作っては解き、その繰り返しです。

今自分は結構オリジナリティのある事を考えられたと思っているんですけど、きっと皆同じ事を考えてるんでしょうね。

最後に、(ほとんどありませんが)人の悩み相談を受けるのって難しいですね。
「自分がされて嫌なことはするな」という無理な要求を念頭に置いて相手の気持ちを考える、そして、客観的な意見も交えて、でも、自分の意見も取り入れて答える。ただ、残念ながら、相手の真の要求を満たさなきゃどんな良い答えでも0点になっちゃう。(もしも相手が、そんなことも気にしない人で、自分なりの解答を待ってくれてるのならこの上なく気が楽ですが。)
でも、上手く相手の要求に合わせられたら最高な気がします。

今日は全部頭の中での話で終わってしまいました。
では、ここら辺で、ばいちゃ。