「急に涼しくなって勉強時間が増えた」の巻き
そろそろ後期始まるということで、気合いを入れ直したいと思っております。
でも、いきなり河川敷で「予習一日3時間復習一日5時間やる!つもりだああ!」なんて、某有名cmのように叫ぶわけではないです笑
Step1
受験生最後の(つもりの)夏休みでペースが乱れまくった体を朝6時半起きにモードチェンジし、全く至らない復習をなんとか最低限進めて、講習のテキストを消化する計画を立て、模試の成績をぶん投げる事から始めます。ついでに机の回りの要らん物も。
Step2
(所詮自分は人間関係や体裁ばかり気にして、恥ずかしい成績は見せることが出来ないのだと言い聞かせた上で)
テッキトーに不合格(成績不振)の時に成績を見せたくない相手の名前を書き出し、その(残念な)シチュエーションをできるだけはっきりとイメージします。(そのときにその人の写真等があるとベター)
ついでに去年落ちた時の事も思い出しましょう。
Step3
前期の唯一の収穫と言っていい「友達を作らなかったこと」をいかに武器にしていくかの作戦会議。
Step4
Step1に戻り繰り返す。
といった感じです。
受かったときの事も落ちたときの事も、できるだけリアルに想像するんです。
体で、心でどっちになりたいか感じた方がやる気になるでしょう。
ここから夏明け。反省点も一杯あります。
過去にやったこと全てが無駄だったわけではないから、そんなにネガティブになる必要もないし、今はやるしかないと諦めたならそこで一つの区切りでしょう。
諦めて勉強します。
昔の自分がどうだったとかは、正直どうでもいいんですが
そこにいた自分を見ることで、今の自分に近いものを客観視できるのかなって思います。
また、過去だけにしかない「事実」という大事なポイントもありますし。
だから、自分が去年落ちて何回も夜泣いてたことは「事実」で、それが悔しかったからなのか、恥ずかしさなのか、理由は定かではありませんが、半年前の自分がまだ今の自分の中にいるなら、その「事実」は頑張る理由くらいにはなるでしょう。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
模試と罰
「模試は長くてツライネ。」
高校での模試の感想なんていっつもこんなもんです。
(自分の知る限り、京大模試(理系)は一番長いです。)
長いのは試験時間だけでなく、解き直しもしかりでして。
(正直解き直しが面倒で模試が嫌いになりそうなくらい)
でも、解き直しが大事なのは納得です。
模試って結構真剣に解くので問題が記憶に残りやすく、復習も後に残りやすい。(もちろんテキトーに受けることも多々ありますが)
それに、模試ってみんなが同じ問題を解いてて、「これを復習しないと差をつけられる」って明らかなのでモチベも上がりやすい。(長いので面倒っちゃ面倒ですけど)
そこで提案。
苦痛は人を歪めるかもしれませんが、受験なんて初めから間違った道かもしれないし、推進力さえあればイカれた思想でも上位の大学に受かるもんなんで歪むことなんて気にしません。
罰をガンガンつけていきましょう。
自分に厳しく出来ないなら強制力をつけませふ。
強制力はないですが、「模試で間違えた問題は解答解説を全部写す」とか。「全国順位×1分復習(勉強)する」とか。
実行が苦痛で、キツいものほど、無駄で腹がたって、アタマおかしくなりそうなものほど効果的かもしれませんね。(もちろん限度は守って)
強制力のあるものと言えば、「全財産を使って参考書を買う」とか。
例えば、所持金全部(5万円)を使って一冊の問題集を買ったとして、せっかく5万出してそのまま放置なんて勿体なくて苦痛なので嫌でもその本をやってやる気になりますよね。
「そんなバカなこと」と思うほど効果的。
誉めるだけじゃ虚しく、ホントは未熟な自分を薄々感じてるのならネガティブからポジティブへと行く回り道をしてみるのも一つの方法です。
今日はこの辺で、ばいちゃ。
日本の受験は我慢しがち
(海外の大学を受験するつもりはありませんが海外の大学が気になって調べた感想)
日本の大学入試はよく欧米のそれ(主にアメリカ)と比較されますが、
なんといっても日本の受験の特徴を一つあげるとしたら「我慢」だと思います。
海外の大学の入学はどちらかというと、特技だったり、ボランティアといった活動、など個性を出すために内からの欲求を重んじる事によって評価されがちだというイメージがあります。
それに対し、日本では、同じ大学の学部を受けるなら、基本的に同じ科目、問題を解いていきます。
そのためにクラム(詰め込み)スクールに通って勉強したり、(海外なら自己PRとして使うであろうことでも、)好きなことを我慢して、(殊に、日本の大学生は勉強しないと言われてますので、その後ほとんど使わない)「勉強」をします。
これが基本スタイルで、好きな事の出番といったら、優秀な受験生であればあるほど「息抜き」になり、いかに上手に我慢するかが合否を分ける大きなポイントになってくるのだと思います。
(当然、大学に入っても勉強する人は沢山いるので、使わないかどうかは人それぞれです)
だから最近は大学も入試方式を変えてますが、根底にある我慢の精神によって、「いかに我慢して」入試の対策をするかを考えているので、なかなかマネは出来ないんじゃないでしょうか。
どちらにも良さ悪さ、多々ありますが、これを意識しているのとそうでないのでは、見方も違ってくると思ったので、調べてみた甲斐がありました。
苦しいこともあるだろう
言い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
まーた決めつけてるよ
また気づかぬうちに決めつけてた。
「気づかない」と「決めつける」。ほぼ同等に嫌いです。
これには普段から気をつけてはいるが、自分も気づかぬうちにしている。はず。
なにせ、気づかないのですから。でも、それにすら気づかないのでしてるかどうか分かりませんが。
だから困ったもんです。
優しくしているつもりでも傷つけている。それに気づかない。
もしそれに気付いても、今までの常識がひっくり返されたような顔してどうも出来ない。
それより、とたんに被害者面し始める事だってある。
誰にだって気づかない事はある、でも、決めつけ続けてきた人々にとっては今さら受け入れ難く、それが「正しい」とされて生きてきたのだから、自然と反発したくなる事ばかり。
どんどんと他の考えと対立していき、争い始めたりする。
こんな事を考えていると、「人は愚かだ」だとか思いたくなってくる。
でも、それだって決めつけた態度にしか思えない。
少なくともみんなそういう一面を持っているから。
誰かがしていて、自分は違うというのは勝手な思い込みで、思い上がりで、それまた決めつけた態度ですしね。
よくある疑問「どうして生きるのか」にだって答えがあると思って考えるのも決めつけている。
こうした決めつけた態度は「うまく」生きていこうと思うほど便利になってくる。
だからどうしても止められない。
でも、こうして考えても、もっと浅くor深く考えても同じ結論に行き着く事ばかりだから、今はそれで成り立ってるのかもしれません。
最後に
人間性について絶望してはならない。
なぜなら我々は人間なのだから。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
自分のせいにはしない
人のせいにするな!とよく聞く言葉ですが、人のせいにしようがしまいが、変わらない事実。
「人のせいにしても他人は変わらないから自分を変えろよ!」という意味だと受け取っております。
だからこそ、「自分のせいだ!」というのは少し違う気がします。
多くが他人のせいで起きているということには間違いがないからです。
自分のせいにしているといっても、その作り上げた「自分」という「他人」のせいにしているということ。
ホントは「自分」のせいなのに、ここで責めてる相手は違う「自分」という他人であるということ。
自分のせいにすりゃそれで変わると思ってしまっている。
実は、またそこで自分を変える機会から逃げているのではないか?
責めている相手が自分だと安心して言いたい放題出来るからじゃないか?
勝手に自分に原因を作り出して、本当には解決できない事実に向かうのは、現実を見ようとしている人の態度とは思えません。(全ては「自分」に言っているだけでありますので悪しからず)
最近困った内容のブログが多いですね。すみません。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
自分のこの感情は嘘だとかゆうて
受験に落ちて辛いのか、
辛く泣いていてもその気持ちは本当か、
テストで負けて悔しいのか、
試合で負けてくやしいのか、
アイツを羨ましがってるのか、
出来ない自分に腹が立つのか、
「やれば出来る」というのが嘘だとバレるのを恐れているのか。
本当は違うんじゃないか。いままで生きてきて、そうするのが当たり前だとか、そうするのが人間らしいとか、それがかっこいいとか、そっちのほうが上手くやっていけるとか。
いままでのそういった経験を踏まえて「自分」だと言い切れるならいいけど、それじゃどうもスッキリしない。
それは、「誰かにとっての自分」でしかない気がする。
「誰かにとっての自分じゃない自分」はどうなのか。自分にもわからない部分を探ってみたい。
でも、どこまでいけば本当かは分からないから、「誰かにとっての自分」が自分になる。というか、そうしとくことになる。
結局そのまま終わるから、本心などはどうでも良いことだったりして。
今日はこの辺で。ばいちゃ。
必要なものは全てここにあったみたいかも。です。
『「勉強をやらない自信がある!」と自信満々に語る自分を、合格させるだけのやり方を見つけて合格してやる!』とあの時は目標がはっきりしてた事を、思い返しております。
受験で合否を分ける「本当の」ポイントは何なのか。
まだまだ受験にもぺーぺーで、分かったことなんてほんの一部だけど、受験生なら誰しも気になる事。
それがひとつで無いことは分かりますが、ひとつひとつの重要性は気になるところです。
例えば
使っている参考書は何なのか。
科目毎の勉強時間とバランスはどうか。
勉強場所はどこか。
使っているシャーペンは何か。
いきたい大学はどこか。(目標は何か)
考えてみれば分かりますが、これは足し算ではなくて、掛け算です。それも、それぞれが独立な変数ではない。
だからこそ合否の予測は難しくなってて、
例えば、「受験本番のコンディション(発揮できる力)」と「勉強場所」には相関があるはずです。
普段の勉強場所がカフェやリビングなど、物音があるところなら本番も周りの物音が多少は気になりづらくなるでしょう。
しかし、普段の勉強場所が静かなところでも集中力が高い人もいますし、カフェでは全く勉強できないけど、本番は強い人もいるでしょう。それは、生まれもっての脳の作りや目標意識、もっと複雑な成長過程にあったりしてなんともいえません...
つまり、これをしたら受かる!とかいったこと(ましてや本で得ただけの知識)では確率でしか合格はできないわけです。
でも、勉強していってそのやり方の間違いを見つければ、少しは確率が上がる訳です。
「合否を分ける要因が複雑に絡み合ってて、一見するとカオス的なことですが、どんどんと間違った選択肢を減らして、自分に合ったやり方(自分でも勉強出来るようになるやり方)に出会う確率を上げていく。」これが全体を包み込む一つのかなり重要なポイントかと思います。
これが出来れば、遥かに合格率は上がるはずです。
つまり、とにかく一つずつでも、「やること」。でも、それをどうしたら出来るか、わからないから受からないんですよね。
だから、自分だったら、一つでも自分が自信のある能力があったらそこから応用して、試行錯誤のサイクルに自分を入れます。でも、試行錯誤を続けても見つからないときの辛さはなんとも言えないですよ。
結局続けること、それは今の自分を変えてくれて、それを時間がかかってもわからせてくれる、唯一の方法かもしれません。
目標が出来ることも、大切な一冊に出会うことも、素晴らしい問題に出会うこと、いいアイデアがでること、全部続けることでしか起こらないことなのかもしれません。
自分は、もう一度始めるとこからですが。
今日はこの辺で。ばいちゃ。